俺の名前は、笹井信司。
二年前に虹波学園星見ヶ島分校を卒業した、町役場の人間だ。
観光企画課に所属する俺の今の主な仕事は、地元アイドルグループ、なないろクリップのマネージャーで、八月の御神木祭に五千人の観光客を星見ヶ島に呼ぶために、島を盛り上げようとしている。
それまで週末ともなると毎週のように本土へ行き、アイドルを応援するためにイベントへ行っていた俺には、恋人もいない。いつの間にか女の子に縁遠い存在になっている。
そもそも島に同じ年代の女の子が少なすぎるのだ。
分校の学生も男子ばかりで、女子は一桁しかいなかったし。
しかもその女子たちからは、アイドルの趣味さえなければね、と言い続けられていたし。
アイドルオタクのなにが悪い。アイドル最高だろっ。
いつものように、なないろクリップの練習を見学するために学校へやって来た。
練習場所の屋上へ続く階段を昇ろうとしたとき、普段は閉まっているはずの図書室の扉が開いているのが目に入る。
なんとなく中を覗いてみると、長い髪の女の子が本を読んでいた。
凛とした後ろ姿は深窓の令嬢にも見える。
あれは、さっちんか。
氷川沙夜。コスプレ好きの美少女で、アイドルオタクの俺にシンパシーを感じてくれている、数少ない俺の理解者だ。
そっと近づいてみると、さっちんはBLラノベを読んでいた。
俺もオタクなので、こういうジャンルの小説があることくらいは知っている。さっちんが読んでいるのは、ちょうど男同士が裸で絡み合う挿絵が描かれているところだった……なかなかエッチだ。
「にゅへへへぇ~~~♪」
うおっ、ビックリした。
トリッキーな行動を取ることがある彼女だが、こんなだらしのない声を聞くのは初めてかも。
「在学中に、空気の読めない正義漢に溢れた有能でバカな後輩が、先輩の将来を閉ざす行為をしてしまってギクシャクした関係になって、その後何年もお互いに意識し合ってとか、こういう展開は大好物だよ。特にこの、『あのときに、何度戻りたいと思ったことか』ってやつ! くふ~~っ、過去の重みがある分、なんかもう、はああ、高階先輩マジ可愛いし、マジ尊い……マジ、マジぃ、マジぃぃぃっ」
好きすぎると語彙が減っていくという話は聞いたことがあるが、俺は今それを目の当たりにした。SNSの痛々しい呟きを生で見ているような、不思議な感覚さえしている。
さっちんは相変わらず本に夢中だ。
誰かに見られるとは思っていないのだろう。
同じオタクとして、ここはそっと立ち去るのがマナーだ。ついでに図書室の扉も閉めておいてあげよう。
と、紳士を気取って立ち去ろうとしたそのとき──
「あっ! イッて……」
机に体をぶつけてしまった。
「笹井先輩っ?」
……せっかくスマートに図書室を出て行こうと思ったのに、決まらない。
さっちんに見つかっちゃったよ。
どうしよう。
俺はさっちんの真後ろにいるので、中身がバッチリ見えている。
さっちんも、俺に見られていた事に、すぐに気づくだろう。
となれば、そのブツの事を触れない訳にはいかない。
「随分面白い本を読んでいるんだな」
俺が先手を打つと、本の存在を思い出したようでラノベを閉じてお腹のところに隠した。
「あっあっ、これは別に、普通の哲学の本でっ」
「ゴメン、見えてた。あと、挿絵も……」
「きゃああっ、ひゃああっ、あ、ふ、ふふ……み、見たな、禊がれし無垢な魂の深淵をっ」
追い詰められて開き直ろうとするが、顔が引きつってしまっていた。
これは俺から触れない方が良かっただろうか。
「なんかゴメン……BL読んでるところを覗いちゃってて」
「BLって単語を使わないでください、なんか恥ずかしいですっ。というか、どうしてここに笹井先輩がいるんですかぁ~っ」
俺はここに来た経緯をさっちんに説明した。
「ともあれ、大丈夫だって、俺もアイドルが好きだし、他の人の趣味は尊重する。だから、俺に見られたからって気にすることないよ」
「気にします、コスプレすることを知られるのはいいですが、腐っている趣味の方はダメなんですっ」
「どちらも趣味という意味では同じじゃないか。それより、どんな内容なんだ? 周りに気付かないくらい夢中になるなんて、よっぽど面白いんだろう?」
「そりゃあもう! で、でも……」
ラノベが曲がるほどの力を手に込める。頬は真っ赤だ。
「笹井先輩にBLの内容を説明するなんて、私の恥ずかしい部分をさらけ出すのと一緒だし、性癖をさらすようなものだから、どんな羞恥プレイよって感じで……でも、教えたい。一人でも多く、この作品の良さを誰かに伝えたいっ、特にオタク文化を理解してくれている笹井先輩にはっ」
葛藤するさっちんから、それが自信を持ってオススメできるラノベだという事は伝わった。
「わかりました、内容を教えます」
さっちんの説明によれば、このラノベはスポーツ青春もので、全寮制の男子校が舞台。先輩と後輩の話で、それまで良好な関係だった二人だが、後輩がプロから声がかかり、先輩より先にプロデビューしたことにより、関係に亀裂が入る話らしい。さっちんが今読んでいたのは、卒業をした先輩と後輩が久しぶりに会ったところなのだという。
久しぶりに会った先輩と後輩が、何故ベッドで裸になっているのか俺にはさっぱり判らないが、そこに至るまでに、読者に納得できる伏線のようなものが張られていたのだろう。
「ど、どうですか」
羞恥プレイ中のさっちんは、俺の顔色をうかがうように、メガネ越しで見つめてくる。
「人間ドラマとしても、面白そうな内容だと思う」
「そう! そうなんですよっ。骨太な内容なので、評価も高いんです」
俺の反応を見て、表情が明るくなった。
「さっちんはスポーツが好きなのか?」
「いいえ、全然?」
スポーツに興味が無い子がハマるなんて、やっぱ凄いラノベなんだな。
「あれ? そこにいるのは、師匠と氷川さん……?」
図書室の入り口から聞こえた声は、俺のよく知るヤツのものだった。
彼の名前は、鳴海瑛太。
寮長を務める三年生で、俺の二つ下だ。彼が入学してきたときは、まだ俺もこの学校にいたこともあり、仲もいい。
俺がアイドルオタクで、さっちんがコスプレオタクや腐女子なら、瑛太はアニメオタクだ。
彼にとっては、なぜか俺が尊敬できる男に見えているらしく、師匠と呼ばれている。そろそろ恥ずかしいので止めてもらいたいが。
「ここで何してるんですか? まさか師匠たちっ、逢い引き──」
「んな訳ないだろ。手を出さないって」
「ですよねー、アイドルは恋愛御法度が鉄則ですし」
瑛太と話すのは久しぶりだが、やはり気心が知れているので楽しい。俺がまだ学生だった頃は、彼と毎日のようにオタク話をしていたからな。
「師匠、なんでニヤニヤしてるんですか?」
「瑛太と話すのって、なんか気楽だと思って」
「そう言ってもらえると嬉しいです。最近、師匠と全然話せてなくて寂しかったから余計に。オレが一年だったあのときに戻りたいって、何度か思ってしまいました。御神木祭が終わったら、声かけてください。またオタ談義に花を咲かせ──」
瑛太が言い終わる前に、派手な音を立てて、さっちんが床に倒れた。
「さっちんっ?」
「氷川さんっ?」
さっちんを抱き起こすが、さっちんの意識はない。
ただ、うわごとのように、なにかを喋っている。
「鳴海先輩が言った言葉が、ラノベとシンクロしてる……CPは笹井先輩×諏訪さん以外に考えられなかったけど、笹井先輩×鳴海先輩もアリ……ああ、現実が、ラノベに、追いついた♪」
「……」
安らかな顔に、俺はさっちんを床に寝かせて屋上へ行きたくなった。
瑛太も顔から表情が消えている。
俺が欲しいのは、ホモの恋人じゃなくて、可愛いアイドルの彼女だっての!
……まあ、それを自分の世界を持つさっちんに言っても仕方がないことなのだが。
オタクってほんと、業が深いよなあ。